■ 慶昌院護持会だより

平成二十八年五月

 境内の桜もすっかり咲きおわり、花吹雪の後の葉桜は晩春を惜しむかの様に初夏の風に吹かれています。さて今回の「しおん」は私の少年時代の回想を書こうと思います。しかもおよそ季節の合わぬ正月の風景ですのであらかじめご容赦下さい。

 毎年大晦日の日、決まってあるお檀家さんが差し入れてくださる年越しの蕎麦を食べ、いつもより早めに寝床に着くのに、なぜか妙に気が昂り寝つけなかった事を憶えています。翌新年の朝、私達四人の子供の枕元には夫々の新調の服が置かれています。真新しい服に袖を通し新年の朝の外気を吸い込んだ瞬間、子供心にもいつもと違う新鮮さを感じたものです。

 祖父母、両親、兄弟四人の八人という大家族が全員食卓の夫々の席に着き祖父が開口一番新年の挨拶をしてから揃っておせちを食べ始めます。当時は何処の家庭でも今のように何万円もするおせち等無いわけで全て手作りでした。母の煮豆は皺がより決して見栄えは良くないのですが、適当に歯ごたえもあり辺に甘くもなく旨かった。

 またお鏡餅や雑煮の餅も全部自前でした。正確には憶えていませんが毎年暮れの二十七、八日頃、旧庫裏の土間の真ん中に石臼が置かれ、その日は朝から竃には四段に重ねられた蒸篭、茶釜からはシュンシュンと真っ白な湯気が立ち上る、そんなお決まりの風景も懐かしい。餅を搗くのは祖父と父が交替にて、私達子供はさすがに杵を持たせてはもらえず、専ら餅を丸め所定の大きさのお鏡にする役、ところがなかなか冷めない搗きたてを手で千切り分けるのは子供には至難の業で、悪戦苦闘の末出来上がった献供用の鏡餅はその大きさも形もバラバラ、お供えを受けられる諸仏諸祖方もさぞや苦笑いなされたろう。

 これらの鏡餅はお檀家さんからのお供えも含め全て水瓶に入れ保存しますが、その水瓶の数も十数個、小さな瓶は水を入れ替えることが出来ても、背丈ほどもある大きな瓶となるとさすがに大人でも無理で、当然の如く綺麗な水でなければその中の餅は見事にカビだらけ、青やら赤やらカラフルに変色したその餅を母が包丁で表面を削り落とし雑煮にするのですが、水餅だから煮るとすぐ形が崩れドロドロに、およそ雑煮とは言い難いシロモノを私は自分の誕生日(四月)の朝まで食べたものです。あの味も今となっては経験出来ません。

 徒然なるままに書いてきながらふと気づいたのですが、最近の事は次々と忘れてしまうのに、五十年も昔の子供の頃の事をなぜこんなにもしっかり記憶しているのでしょう。それらの経験が今より何倍も濃い一日であり一年だったからでしょうか。


■ 平成二十七年度「しおん」

■ 平成二十六年度「しおん」

■ 平成二十五年度「しおん」

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