■ 慶昌院護持会だより

平成二十六年五月

 すっかり春らしい、一年でいちばん過ごし易い季節となりました。

 普段寺の内外、いろいろな法要を勤めておりますが、どんな法要の後にも必ず、ご回向文というお経とは別の文言を添えます。お通夜のご回向の中に「四大縁謝」ということばが出て来ます。もう何千回も口にしているのに、その意味を最近になって漸く考えながら唱えるようになりました。「四大不調」と云うように「四大」とは私達のこの身体ということです。では「四大縁謝」とは?調べたわけではありませんが、「この世に人としての身体を授かった縁に感謝する」と云う意味に解釈出来ます。でもそれだけの意味でしょうか?

 修証義の一節に「人身得ること難し、仏法値うこと希れなり」とありますが、これは「他の何物でもなく、人として生を受けたということで、仏の教えに出会えるという難値難遇の勝縁を尊びなさい」と云うお示しであり、「人であればこそ仏の教えに浴した生き方をしなければならない」という教訓でもあります。

 また「十重禁戒」の中の「不殺生」の教えは単に「生き物を殺してはならない」ということではありません。私達は自分の命をつなぐために、他の多くの命を犠牲にしています。人間の営みである衣食住の全ては、この自然界のあらゆる命の存在がなくては成り立ちません。それら犠牲になった命の有難さを自覚し、無駄にしない生き方を心がけなければならないという戒め、「おかげの命を粗末にするな」という教えです。おかげの命とは人と人との縁にもつながります。それは遠く昔の亡き人や現実には関わりをもたない人も含めた全ての人との縁ということです。

 四年ほど前、初めて鹿児島県の知覧を訪ねる機会を得ました。あの神風特攻隊のあったところです。資料館には、全国の数百名の散っていった特攻兵達の氏名と共に、沢山の遺影が展示されていました。その中の一際大きなパネルの前で足が止まりました。十七歳の未だあどけなさが残る少年が、つかの間の仲間達との談笑の中、子犬を抱き微笑みを返す姿を見せられ、思わず目頭が熱くなりました。「こんなに幼い少年が、いったいどんな思いで帰ることのない戦闘機に乗るのか?自分はこの時代に生まれなくてよかった」と本音が出ました。が、資料館を後にして時間が経つにつれ、心の奥に訴える何かが残りました。それは避けられぬこの時の流れの正否などではなく、少年達の余りに短すぎる生き様を想う、決して忘れてはならない、絶対に軽んずることの出来ぬ命の尊さでした。

 私達が生きるということは、過去、現在、未来を通じて、どれほど計り知れぬ膨大な命の存在のおかげを蒙るのか?だからこそ私達は「四大縁謝」の念を忘れることなく、自己の余生をしてお返ししていかねばならないと思うのです。


■ 平成二十五年度「しおん」

■ 平成二十四年度「しおん」