■ 慶昌院護持会だより

平成二十七年五月

 この春は天候不順が続き、いつ開こうか迷っていた境内の桜も、一気に暖かくなって一斉に開花したかと思ったら、春雨の後の風にあっという間の桜吹雪と化しました。自然の生業は諸行無常、毎々変わり続けていく様を実感します。

 私もこの四月で六十三歳となりました。住職歴も先代の突然の遷化(他界)から三十六年、先代の住職期間は僅か十三年でしたので、すでに三倍近く勤めて来たことになりますが、只々徒に年を重ねてきたばかりです。

 先代十八世住職であった父は本当は二男でした。本来の後継者の長兄は先の大戦の激戦地ガダルカナル島にて戦死されました。いよいよ敵陣に囲まれ最期を覚悟し、観音経を唱えながらの戦死だったそうです。未だ二十二、三歳の最愛の跡取り息子を亡くした祖父の落胆は如何ばかりであったか。

 その頃の父は僧侶になる意志はなく電気工学の道を歩んでいました。皮肉なことにそのお陰か戦地では通信部門に関り、ほとんど前線に立たされる事なく、そのまま終戦を迎えたといいます。しかし兄は潔く戦死したのに自分は生きて帰る事が出来た、この複雑な立場を縁と考え、(兄や多くの戦友への供養の念もあったのだと思います)それまでの道を断念し寺の跡を継ぐ決心をしたそうです。

 この話は私が未だ学生だった頃と記憶しますが、その日夜半一人で入浴していました。そこへ父が入って来て、驚き戸惑う私を気にも留めず湯船に浸かりながら、独り言の様にゆっくりと語り出したのでした。その頃の私はというと、正直なところ未だ僧侶として寺の跡を継ぐという腹が定まっていませんでした。そんな私の胸中を見抜いていたのでしょうか、初めて明かされた父の本心、それまで当たり前に寺の跡を継いだとばかり思っていた父の存在が、「自分と同じ様に悩んだ時があったのか」と今までより少し身近に感ぜられ、それ以来、「自分もこの父の跡を継がなくては」という思いが強くなっていったのを憶えています。

 本当に縁というものは不思議です。この年になってますますその実感が強くなって来ています。私は運だとか宿命だとかで左右されるのが人生だとは思いません。すべては縁によって動いている、例え自分にとって不測の事態であっても、そんな試練も巡って来た縁と捉え受け入れていくしかないのだと思います。

 父にとっては長兄が戦死されなければ巡っては来ない仏縁でした。それは私にとっても同じ事です。父がこの寺の住職になっていなければ、まずここに生まれる事はなかったわけですから。どの様な生き方をしているのか想像つきませんが、それはそれで僧侶とは別の縁に生きているわけです。しかし現実に私はこのお寺の住職をしている。この縁を与えてくださった祖父母、両親、戦死された伯父にあらためて報恩感謝の気持ちを捧げたいと思います。


■ 訃報

 当院の檀信徒総代であり、平成二十年よりは、総代会長を勤めていただいてきました青山光正様が去る三月十二日急逝されました。ご生前の菩提寺護持の篤きご道念に心より謝意を表し、謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


■ 平成二十六年度「しおん」

■ 平成二十五年度「しおん」

■ 平成二十四年度「しおん」