■ 慶昌院護持会だより

平成二十五年五月

 初夏の薫風が心地良く感ぜられる、一年で一番過ごしやすい好時節となりました。境内は百花繚乱の真っ只中、晩春を惜しむかのように咲き競っています。

 あの未曾有の大惨事、先の震災より早二年が過ぎました。もうそんなになるのかと思えるほど、時の経つ速さに驚かされます。月日の経過とともに私達は日常の繁忙の中で、震災の記憶も薄れていく様です。しかし未だ先の見えぬ生活を強いられた、被災地の方々の苦しみは決して薄れることはないでしょう。三月は春のお彼岸の月です。震災直後の二年前、未だ生死の確認も出来ていない現状の中、現地のいくつかのお寺で、多くの犠牲者の方々の供養としてお彼岸の法要が営まれたといいます。

 彼岸とは彼方の岸と書きますので、大きな川の流れの向こう岸ということで、仏様の居ますさとりの世界を意味します。私達は年に二度お彼岸を迎えるに当たり、こちら岸から仏様の向こう岸に渡ろうという心を発すことで、その誓願を立てる功徳をそのままご先祖様、亡くなられた方へのご回向とするのが本来のお彼岸のあり方です。

 彼岸へ渡る手立てとして六つの誓願「六波羅蜜」があります。「六度」ともいい、「布施」「持戒」「忍辱」「精進」「禅定」「智慧」をいいますが、その最初に出てくる教えが「布施行」です。布施と聞くと皆さんは「お経を挙げて下さったお寺への御礼」を想われるでしょうが、本当はもっと広い意味があります。

 皆さんが日頃親しんで読まれる「修証義」の第四章「発願利生」の一節に「布施というは貪らざるなり、(中略)一銭一草の財をも布施すべし、(中略)治生産業もとより布施に非ざること無し」とありますように、真の布施行の姿とは「まず欲の心をおさえること」そして、「一見何の価値も無い物であっても、相手の心が和むのであれば、例え道端に生えている名も無き小さな草花でも立派な布施である」と、布施する物の価値ではなく心が大事であることを説かれ、また「私達が日々従事している自分の仕事を怠ることなく勤めることも、世の中の多くの人々に還元される布施行に他ならない」と説かれています。とにかく「布施」とは単なる御礼とかお返しではなく、他人のため、世の中のためにする善き行いということです。

 私たちは日頃それほど、他人のために何か善いことをする機会はないように思います。たまたまその様な立場になっても、少なからずどこかに相手に見返りを期待する心があり、御礼の言葉も無いと「何と礼儀知らずな奴だ」と腹を立てたりするものです。これでは全く「布施」になりません。「報謝を貪らず」と説かれているように、相手からのお返しを期待しない姿こそ、真の「布施行」であることを知らねばなりません。

 被災地の方々に比べたら充分に恵まれている私達は、普段の生活の中で生まれる欲望をほんの少し減らすことで、その余得を被災地への支援に向けることが出来るのです。その善行善徳は回り向かい、ちゃんとご先祖様へのご供養になるのですから。


■ 平成二十四年度「しおん」