■ 草創

 当院は文明五年(1473)後土御門天皇の御代、松原下総守廣長公が今村城築城の際、城域守護を祈願し、八王子大明神並に薬師如来を勧請し、別当職兼務にて医王山八王寺を開創したことに始まる。
 爾来天台宗八王寺として一五〇有余年の歳月を経る。

開基 松原廣長公尊像
 開基 松原廣長公尊像


■ 曹洞宗慶昌院の開創

 寛永五年(1628)孝岳慶順が中興開基となり、本尊を釈迦牟尼如来とした。草創開山、雲興寺十五世興南義繁は寛永八年、正式に曹洞宗に帰属させ、寺号も桂昌院(五代綱吉公の生母の戒名より付す)と改めた。続いて雲興寺十七世別岫祖傅が二代となるも、廣長公没後は(菩提寺は真宗高田派万徳寺。廣長公は聖徳太子に帰依し、太子像の絵巻を万徳寺に奉納するなど縁が深かった。)守護する者も無き地方寒村寺院として無住平僧地となる。
 元禄十四年(1701、一説には貞享四年とも、元禄十一年ともいう)雲興寺十九世玄峯傅旨が来住、再興開山となり、続いて廿六世明極即證が晋住、二世となる。
 さらに寛延元年(1748)太初逸元(のち豊田市千鳥寺十世)三世として晋住、法地開闢するに至る。この代、本堂・開山堂・庫裡等が再建一新された。(桂昌院が、慶昌院と改められた時期は不明。)
 その後 法灯不断にして護持され、文政十年(1827)七世東甫魯洲の代、十一面観世音菩薩(現位牌堂本尊)を勧請し観音堂(現祖堂、現況の伽藍では最古)を建立。
 明治初年(年代不祥)十二世明極全瑞の代、遠州は秋葉総本山秋葉寺より三尺妨大権現を勧請奉祀す、旧秋葉本殿(現 瑞浪市慈照寺本堂)は 明治四十一年(1908)十四世喝三秀巌代に建立される。

旧本堂(現位牌堂)
 旧本堂(現位牌堂) 当時は萱葺き屋根であった。


■ 中興・再中興の祖

 昭和八年(1933)十五世文中哲哉の代、本堂・位碑堂・庫裡の再建を発願、しかし志半ばにして遷化さる。十六世宏嶽浄天 京都大蔵寺を辞し来住、宿志を縦ぎ、この大願を成就し、同二十五年(1950)落慶・報恩大授破会を啓建す。
 加えて不老閣(含月台)・納骨堂兼葬儀場(白雲堂)を新築、墓地造成等の違業を成す。よって中興の祖となす。
 昭和四十年頃より、十六世浄天四大不調となり、同四十一年秋(1966)退董、嗣子天中正美晋住十八世となる。同四十七年四月、地下集会場(秋葉会館)を付属する秋葉総本殿(蔵王殿)・丈室(耕雲閣)・衆寮(種月寮)等を新築。よって再中興の祖となす。

本堂上棟時
 本堂上棟時
中央は十六世宏嶽浄天和尚、前列右から2番目は十八世天中正美和尚

旧庫裡
 旧庫裡

十六世遺作「真如」
 十六世遺作「真如」

十七世太玄義孝大和尚遺影
 十七世太玄義孝大和尚遺影(当山十三曽孫比丘伊藤清永画伯筆)

※ 十七世太玄義孝和尚は、先の大戦にて ガダルカナル島最前戦で敵陣に囲まれ、 結跏趺坐、普門品を唱え自決す、と墓石に記されている。


■ 現在

 昭和五十四年十月(1979)十八世突如遷化、同五十六年十一月、嗣子中外正康十九世として晋住、因に報恩大授戒会を啓建す。白雲堂改修・新墓地造成・駐車場整備等を経て、今般、諸堂造営並に境内大改修を発願成就す。
 慈恩師十六世浄天大和尚の廿三回忌、本師十八世正美大和尚の十三回忌の忌辰を卜しての報恩の大事業の完遂となった。

十八世遺作
 十八世遺作
三依一鉢の句は「三依一鉢 五十九年 乾坤不味 秋清月圓」の遺偈となる。